逆光の絵画

まぶしくてよく見えない絵画をつくる(ほんとうはまぶしくないしよく見える)。

目に見えているものや私たち自身の存在は本当に確かなものなのだろうか。
普段よく見ているはずの家族や友人、果物などの静物を描く。
これらはすべてこれらの背後から光があたっており、逆光だ。
絵画空間にあるこれらの背後ではおそらく、明るくよく見えているが、
現実空間にある私たち観者側では影となり、暗く、よく見えない。

私たちは決して、明るく照らされた明瞭な、彼らの詳細を見ることはできない。

よく見えているはずの人や物であっても、すべてが見えている、わかるわけではない。
対象のすべてが見えなくとも問題なくやり過ごせる私たちはとても賢く、愚かだ。
絵画は現実に存在する虚構であり、現虚を行き来する曖昧な存在だ。
そこには観者が決して立ち入ることができない、絶対的な平面性がある。
現実を模倣、モチーフを実物大で描くことで次元の境界を曖昧にし、没入を容易くするが、
同時に介入不可能な“絵画であること”を強く示す。
絵画の持つ現虚の両義性を用い、曖昧で不確かであろう私たちについて思考する。    (2021.4)



 
見えないことを見ること

​ あなたと私が同じ物事を見たとしても個人によって見え方は大きく変化し、見えるもの・見えないものに違いがあるのは自明だ。世界における物事はそのままではあまりにも複雑だから「私」というフィルターを通して自身にわかりよいように咀嚼する。「私」が物事として認識しているものはあくまでも物事の断片に過ぎない。見えていない断片は山ほどあり、それに気づかなかったり、見ないようにしたりする。断片をかき集めひとつの物事、のようなものが見えてもそれには必ず見えていない断片がある。また、私たちの頭と心は内外問わず様々な要因から誤った認識をする。物事のすべてを見ることは私たちが人である限りは不可能だ。
 私たちは一体なにを見ているのか。複雑な世界を複雑なまま見ることができない、いつだって「私」から抜け出せず物事のすべては見えない、「私」を介さなければ周囲の何も見ることができない私たちは愚かで、賢く、切ない。

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 「見えているものがいかに不確かであるか」を軸に、見えている世界を揺らがせる表現を模索する。例えばりんごを見るとき、私たちの限られた目では裏は見えず、いつも表だ。表にあるとき、裏がどのようになっているのか見えない。そしてりんごの内情、どこでどのような背景のもと生まれ日々どのように育てられどういった成分で構成され個体差は如何ほどなのか等、りんご自身の景色はよく見えない。物事のすべてを見ることは不可能だが、すべてが見えなくても問題なくやり過ごせる私たちはとても賢く、愚かだ。
 
 こうなっているであろうという予測がそのまま物事を構成する断片として認識されていることにとても関心がある。見えているものだけが真ではない、見えているものも真ではない、どこに真を置いていくのか、改めて思考し、問う。 ( 2020.5)
存在の不確かさを確かめる

人が何かを認識/記憶するとき、対象の断片しか見えていないにも関わらず、

まるでそれがすべてであるかのように思うこと。

または、見えないことを見ないようにすること。

それはとても切なく、可笑しい。

ものごとを認識/記憶する過程で零れ落ちるものに興味がある。

見えているもの、自身の記憶、その存在はいかに不確かであるか。

人は何かを繰り返すことでしか世界を認知できない。

しかし認知したものは定かなのだろうか。

それは月の満ち欠けの虚構性とも似ている。

何事も虚構であると同時に真理だ。

​「世界は不確かである」という矛盾をまっすぐ見つめ、表現をしてゆく。 (2020.2)